第2部では、新参者のページをどうにかGoogleに読んでもらう方法を述べた。
この第3部では、老人なりの主張をいくつか行う。
実生活ではまだ老人というカテゴリに入らない私だが、経歴上、「インターネット老人会」には十分参加できる。多分、ウェブに対する考え方も相当古いと思うので、あえて「老人」と称することにする。
Google中心のウェブは、本を公開するのに向いていない
まず、主張というよりは感想。
現在のウェブは、本を公開するのに向いていない情報空間になってしまった。正確にいえば「Google中心の、現在のウェブは」ということになるだろうか。
実績のない者は評価されない
ウェブというのは、個人が自らの著作物を自由に開示できる場である。もちろん玉石混交ではあるが、中には「玉」もある。読み応えのある書籍(に相当するコンテンツ)を、私はいくつかウェブ上で見てきた。だから「本はウェブでも出版できる」と思ったし、今回の自分もそれを目標にした。
しかし今回、満を持して「出版」した本は、Googleに見向きもされなかった。ということは誰も読みに来ない。これすなわち、出版していないも同然である。
昔なら、実績のない作者が「上梓」した1冊目の本に対して、もう少しGoogleの評価が高かったのではないか。そういう思いがある。
更新頻度が重視される世界
この状況を打破すべく、第2部で述べたような対策をいくつか行った。その結果、1日に数人が来訪する(といっても1ページ読んで帰っていくだけだが)ところまでは改善した。
今後しばらくは、緩やかにアクセス数が増えるだろうという根拠のない期待はある。理由は第2部で述べたとおり、Googleの評価がずいぶんのんびりと上がる可能性があるためだ。
しかし一方で、長期的にはアクセス数が減っていくだろうという予想もしている。こちらの理由は明確で、サイトの更新頻度が今後ほぼゼロだから。言い換えれば、書き終えた本に対して、加筆修正など滅多に行わないからだ。
今回、アクセス数が多少なりとも上向いた理由としては、「Google好みの体裁にリライトしたこと」「単にサイトの更新頻度が上がったこと」の2つがあると思っている。体裁はすっかりGoogle好みになった(と思う)からリライトをやめたのだが、その途端にインデックス登録されているページ数が減り始めた。サイトの更新頻度がGoogleの評価に影響していることは間違いない。
書籍にとって、更新頻度は重要でない
ブログや情報サイトなら、更新頻度が重要な評価基準になることは分かる。しかし「書籍」に対して、更新頻度を評価基準に加えるのは、ちょっと違うと思う。少なくとも、出版物としての本に対してそんな評価はしないだろう。常に編集していないと書籍としての価値が劣化する――そんな本、ある?という話だ。
第2部でも述べたが、出版物としての本は、一度世に出たらそうそう改訂されるものではない。ということは、本の中身をそのままウェブに載せても、改訂がないから、Googleの評価は高くならないということではないか?
結論として、Googleが実質的なサイトの価値を決める今のウェブは、本を「出版」するのに向いていない。そう強く感じている。
今、個人の長文を扱うポータルが不在
次。言っていることは結局同じなのだが、個人が本を「出版」するのに適した場が、今のネット上には乏しいと私には感じられる。一昔前のネット用語に成り下がった感のある「ポータルサイト」、これが今、見当たらないのである。
惜別、ディレクトリ型検索エンジン
今のような検索エンジン、つまりロボットが世の中の各ウェブサイトを訪問して情報を収集し、全文検索を可能にするという仕組みが一般的になったのは20世紀の終わりである。
では、それまで人々はどうやってウェブサイトを探していたのか?
答えは、Yahoo!に代表される「ディレクトリ型検索エンジン」である。
イメージは「職業別電話帳」だ(今の若者はそもそも電話帳をイメージできない?)。世の中のサイトを人間がカテゴリ別に分類した、いわば巨大なリンク集である。検索する人はまずカテゴリを選択し、興味にマッチしそうなサイトを探し出す。
有力なサイトは検索エンジンの「中の人」が勝手にディレクトリに登録してくれる。それ以外に、自薦・他薦で特定のサイトをディレクトリに登録してもらう仕組みもあったように思う(検索エンジンによるとは思うが)。
もし、今の世の中にこの仕組みが残っていたなら、私はまずここに登録を申請しただろう。
不動産というカテゴリに特化したサイトだから、ディレクトリ型検索エンジンに非常にマッチする。不動産売買に興味のある人の目にとまる可能性も比較的高い(何万サイトもあったら結局無理かもしれないが)。新参者の「取っかかり」としては非常に有用であった。
しかし今、「特定のジャンルのページを集めたリンク集」で、個人が登録を申請できるようなものは見当たらない。
ブログランキングも更新頻度重視
ちょっと似たものとして、今も続いているのが「ブログランキング」である。大手でいえば「にほんブログ村」などが当てはまる。
個人のブログがカテゴリ別に登録されており、アクセス数でランクがつけられるというもの。新参者はゼロからのスタートとなるが、「ランダムリンク」のような「誘客」の仕組みは多少あると思われる。
ただ、これらはブログを対象としているため、更新頻度を要求される。1年も2年も更新されないブログは埋もれていく一方だ。
また、こうしたサイトに登録してもSEO的には意味がないと言われている。つまり、ここで有名になっても、検索エンジン経由での誘客には直接つながっていかない。
以上2点より、このサイトはブログランキングに参加していない。
小説なら話は違った
カテゴリが違えば状況はちょっと違う。具体的には、創作であれば受け皿があるようなのだ。
私はフィクションという意味での創作をしないが、時々話を聞くのが「小説家になろう」という小説投稿サイトである。「なろう系」などという言葉もあるほど、ウェブ上で文学を志す人たちにとってはメジャーな存在であるようだ。
今回、これのノンフィクション版があればよかったのである。「ノンフィクション作家になろう」とか、そういう感じだ。ノンフィクション作家を名乗るのはさすがに小っ恥ずかしいが、コンセプトとしては今の私にドンピシャだ。
しかし多分、そういうサイトはない。
向いているようで向いていないnote
あと、気になっているがイマイチ私のニーズにそぐわないのがnoteである。
最近、検索していると、noteに掲載されている「個人のちょっとした書き物」がよくヒットする印象がある。
中には何じゃそりゃというクオリティの記事もあり、そういうのがヒットすると「実はnoteってSEO的に有利なの?」と思ったりもするのだが、これは単に「隣の芝は青い」というだけかもしれない。
そんなnoteだが、私の性に合わないので、今は選択肢から外している。
noteでは、広告によるマネタイズは直接できないようだ(Amazonアフィリエイトは例外)。
ストレートに「1記事100円」といった課金は可能だが、無料記事である程度の実績がないと厳しかろう。また、個人的には「有料? なら読まないよ」という層の気持ちがよく分かるので、「広告を見せられるがタダで読める」という方式で、より広い層に読んでもらいたいという思いがある。
取っかかりを作れない
以上のように、フィクションでない「本」を新規に書き下ろしたとき、それを「宣伝」する適切な場がないというのが私の認識だ。
結局、頼りになるのはGoogleを筆頭としたロボット型検索エンジンである。が、これまで散々述べてきたように、「紙の書籍」を意識した形態のページは不利だ。
ゼロからスタートする際の取っかかりがない。厳しい世界になってしまった。
今のウェブは、初心者に優しくない
今のウェブは「個人の長文」に優しくない、ということを書いた。
それと同時に、「初心者」に対しても、以前ほど優しくないように思う。裏を返すと、一旦有名になった者の既得権益が大きすぎると感じる。
中途半端な有名人が書いたというだけで検索結果に出てくる、クソみたいな記事。あれはどうなってるの?と、やっかみ半分で文句を言いたいわけだ。
有用でない検索結果に見る「既得権益」
先日、とある無料サービスの終了が発表された。私自身、ここ1~2年間は存分に活用していたものであり、正直かなりショックだった。
サービス終了後、私はどうすればいいのだろう? そう思って「○○サービス 終了」のようなキーワードで何度かGoogle検索をかけた。
元々、確たる答えのある問題ではない。各個人の消費スタイルや求める品質等々、前提条件により最適解は変わってくる。それは承知で、何かヒントを得られればと思い調べてみたのだった。
あえて個人のページを検索したら……
上位10件以内に個人のページが2、3件食い込んできていたので真っ先に読んだ。各個人のリアルな対策を見たいと思ったからである。
「代替策をどうするか」というのは一人一人が考える話だ。だからこそ、客観的なニュースサイトではなく、個人のサイトにヒントがあると考えた。
しかし記事を読んで脱力した。欲しい情報は何もない。
筆者がこれまでどのようにサービスを使ってきたか、といった過去についての言及が長い。そして今後については「やめる」「有料で継続する」といった選択結果が書いてあるだけ。何と何を比較検討した結果、その結論に至ったのかは書かれていなかった。
有用な情報がなくても上位表示される「有名人」
自分にとって有用な情報がなかった、ということについてはまだ理解する。検索時に「対策」「代替策」のようなワードを入れていないからだ。
それに元々、答えのない問題みたいなところはある。今回出てきた「有料ならやめる」「いや有料でも継続する」という対応は、ある意味、どストレートな対策であり、AI要約なら真っ先に採用しそうな回答ということもできる。
私がショックを受けたのは、このような記事、すなわち「情報」というよりは単なるエッセイ、日記といった体の記事が、わりとメジャーな検索ワードでトップ10に入るということだ。
そうした記事を否定するものではないが、ユーザの求める検索結果として適切なのか。そして、こうした記事がトップ10に入る理由は、既にGoogle的に実績のあるサイトだからではないのか。
新参者には超えられない「壁」
私が記事を書く場合、何度も推敲し、SEOプラグインの無茶な要求で泣く泣く文章をブツ切りにし、その他Googleに好まれそうなありとあらゆる工夫をしている。
もちろん内容についても、有用性があると信じたものが主である。一般的な個人が容易に経験できないような事柄。あるいは相当な調べ物をしてようやく得られる、整理された情報。それこそ、本にして出版してもいいと思うぐらいの内容を記事にしている。
それでもなお、多くのページが門前払いを食らっている。すなわち、そもそもGoogleにインデックスされない。検索結果内での順位以前の問題である。
他方、Googleから既に一定の評価を得ている個人だと、日記レベルの記事が易々とトップ10に入ってくる。
もちろん、端から見て単なる日記だと思っている記事に、実は血のにじむような努力や工夫が潜んでいるという可能性もある。
しかしGoogleカースト下位の私からすると、そこには「差別」と呼んでいいほどの、覆すことの難しい高い壁があるように思えてならないのである。
広告は悪か? コンテンツはタダでいいのか?
ちょっと話題は変わって、広告についての主張。
最近のウェブ広告はとにかくしつこい。「これ1回見たら以後24時間は出ないから! 我慢して見て!」といったタイプのものが激増した。先に進みたいのでしぶしぶ見るのだが、本文内にはまた別の広告が大量にある。「×」を押して消そうと思ったら、手が滑って広告をクリックしてしまうことも多い。これが皆の望んでいるウェブの姿ですか?と思っている人もいるかもしれない。
しかし、価値のある情報をタダで入手できるということ自体が、そもそもおかしい。広告料という対価を支払って情報を得る方が、むしろ理にかなっている。最近はそんなことを思う。そして自らのウェブページにも広告を入れている。
私が考えを変えた訳
私も、昔はこうではなかった。
読者からすると広告は煩い。ともすればページを読む上で邪魔になる。読んでもらうことが主目的であれば広告は排除すべき。そう考えていた。
もちろん、自分の運営していたウェブページに広告は金輪際入れなかった。
しかし今は違う。
まず家族を養っていく責任がある。
私の本業は会社員だが、いつ辞めさせられるかは分からない。それに定年は確実にある。現状、広告料収入は息子の小遣いにもならないし、それだけで食べていけるという未来は描けない。それでも「何かを書いて収入を得る」ということに関し、土地勘を養っておく程度の準備はしておきたい。
次に、最近ちょっと考えが変わったというのがある。
モノを書いて公開して、そこから広告料を得る。これは別に不埒でも強欲でもない。むしろ、書き手と読み手の健全な関係性の一つなのではないかと思うようになったのだ。
無料コンテンツに対するリスペクトの無さ
私程度の、特に技を持たない素人だと、記事を有料にした途端に読者数が限りなくゼロに近付く。無料だからこそ読者がつくというのが現実だろう。読み手に届かないのでは書いて公開する意味がない。
その意味で「無料」は書き手にとってのハードルを下げる。ウェブは情報発信に対するコストが低く、書き手が作品を無料で公開しても大して懐は痛まない。
結果として、読み手からするとタダで読めるコンテンツがウェブ上には相当数存在する。
フリーミアムモデルのように、戦略的に一部を無料にしている場合もある。その一方で、作者の善意、あるいは身を切っての読者開拓のために無料公開されているものも多い。
この状況を受け、読み手の意識は「無料が基本」となってしまった。つまり「ウェブ上の情報はタダ」「タダで作品が読めるのは当たり前」といった風潮である。
しかし、これで良いのか?
タダで読めるが有用なコンテンツは数多い。読み手がそうしたコンテンツを当たり前のように無料で享受し、「ウェブ上のコンテンツはタダ」といった感覚に陥るのは、書き手に対して失礼ではないのか?
最近そう考えるようになってきた。
間接的に対価を支払える「広告モデル」
こうした私のモヤモヤを解決する手段の一つ。それが、とかく邪魔者扱いされるネット広告である。
読み手からすれば正直、煩い。
しかし読み手が広告を目にすることにより、書き手に収益が生じる。つまり書き手に対価(広告料)が支払われる。これで、読み手と書き手が間接的に「ギブアンドテイク」の健全な関係性になる。
したがって、無料で公開されているコンテンツには広告があるのがむしろ自然である。そうは言えないだろうか。
有料化は完全な解決策ではない
つい最近まで、個人のコンテンツが直接的な対価を得ることは結構難しかった。そういう仕組みがなかったのである。有料メルマガというのは今も昔もあるが、「今、目の前の調べ物に必要な情報」を得る手段としては向かない。
記事単位の課金で得られるもの、失うもの
そこへ現れたのが「note」である。一見ふつうのブログだが、一個人でも、1記事いくらの有料記事を簡単に作れる。
これはなかなか画期的だ。「価値のあるコンテンツに対価を払え」という主張にジャストミートする。ブツブツ言ってないで、お前もnote使えや、ということになる。
ただ、記事を有料化することで、間口が狭くなることは避けられない。要は「有料なら、わざわざ読まない」という人が多くいるのだ。
記事を有料化すると、潜在的な読者がどの程度減るか。調べていないので具体的な数字は全く分からない。だから私の勝手な予想だが、数分の一、あるいは数十分の一になるのではないか。
それはそれで困る。書き手として書いたからにはより多くの人の目に触れてほしいという欲求がある。いや、私の場合そんなレベルではない。実績のない新参者がさらに間口を狭めたら、読者が本当にゼロになってしまう。
クリエイターに直接対価が支払われる仕組みができたことは喜ばしい。しかしそれは従来の「広告収入で対価を得る」仕組みを100%置き換えるものではない。守備範囲が違うと考えられる。
テレビ界にPPVという仕組みができた一方、CMつきだが無料で見られる民放がまだ生き残っているのと同じだ。
「無料」は当たり前ではない
まとめると、書き手が時間をかけて作成したコンテンツを無料で読めることは決して当たり前ではない。本来、何らかの対価を支払うのが自然である。
ウェブ上には、直接的に対価を支払う必要のないコンテンツが多くある。これらに対しては、広告を視聴するという行為によって間接的に対価を支払うくらいが、書き手と読み手の適切な関係なのではないか、ということだ。
だからオレは広告料をもらってよい。
最後に:個人が発信者であり続けられますように
1990年代の後半、個人がウェブページを持てる時代が幕を開けた。
私自身、この時代の空気を肌で感じた経験を持っているが、大袈裟に言うならば「情報の民主化」という革命が起こったと思った。新聞社やテレビ局のように絶大な資本と権力を持っている者が情報配信を独占する。そんな時代にインターネットとウェブが風穴を明けたのだ。
そして、その「情報の民主化」に一役買ったのが、大量の情報から必要なものを見つけ出す検索技術であったと思う。その意味でGoogleの登場は大きかった。
いくら個人が情報を配信しても、それが最終的な読者に届かなければ意味がない。その橋渡しを「検索エンジン」という手段で行うのがGoogleだ。力を持たない個人の配信者にとって、革命を加速させるカリスマ的存在であった。
しかし今、実績のない一個人のウェブページがGoogleで冷遇されるのを見るにつけ、時代は変わったと思う。かくいう自分も、Googleから広告料を得ようなどとスケベ心を出すようになったので他人のことは言えないのかもしれないが。
マスコミという専制君主の下にあった情報の世界は、一旦民主化された後、Googleという新たな専制君主の下におかれる状況となってしまった。
そんな時代であっても、個人が情報を発信できること、そしてそれが必要とする人に届くことは重要であり続ける。それが「革命」を経験した私の偽らざる感想だ。
自ら革命を起こせるほどの力は私にはない。しかし本記事に示した「悪あがき」は、まだ多少の力を持っていることが分かった。
本記事が一助となり、個人の発する有用な情報が末永く読み手に届くことを祈りたい。